第6回 CAJアーティスト・イン・レジデンス キューバ現代美術展
   ささやかな総括

正木基 美術評論家、casa de cuba主宰

 キューバ革命(1959年)後、第三世代と言われている作家群からアベル・バロッソ(1971年生まれ)を迎え、彼との協議によって、サンドラ・ラモス(1969年生まれ)、フリオ・セサル(1969年生まれ)、ジェンドリス・パターソン・リカルド(1970年代後半生まれ)の作品を加え、キューバ美術の一現況を紹介する展覧会構成とした。

 この世代の作家たちに共通するのは、青年期にソビエト・東欧の社会主義圏崩壊を体験して、その際に、制作を含む生活実感として、資本主義圏と社会主義圏の狭間=挟間に置かれた国の在り方を実感した世代であるということだろう。日本と同じ島国であり、航路でもあり、遮路ともなる海域を国境としているが、社会主義圏崩壊に伴う1990年代前半の‘Periodo espacial’(経済危機、非常時期)には、食べられずに、渡航を試みた移民の多くが命を落とす国境が世界中の注目を浴びたものだった。そういう状況下、彼等には、海域の向こうへの複雑な思いが、原体験的に蓄積されていくなかで(複雑というのは資本主義アメリカへの嫌悪と憧憬の織り成しなど)、共通に思ったことは、キューバという国の持つ様々な‘límite’(境界)であった、と言えるかもしれない。

 それを島国の島嶼性(insularidad)の問題として、油彩画、版画、コラージュ、オブジェなど多彩な表現手段で表現し続けてきたのが、2013年のベニスビエンナーレでキューバ代表作家の一人に選ばれたサンドラ・ラモス。今回の新作ではアニメーション‘DOMESTICACION’(調教)が注目された。スペイン人(コロンブス?)、アメリカ人(アンクル・サム?)、ロシア人(レーニン?)らがクロコダイル=キューバ島の捕獲を試みるのに、アメリカを擬人化した象徴アンクル・サムに対するキューバ農民をアイコン化したリボリオ、また、キューバのお人好し庶民のエル・ボボと言った、20世紀初頭の新聞コミックで活躍したキャラクターが抗するものと言え、スペイン人に始まるキューバ島籠絡の歴史を、イマジネィティヴに分りやすく提示してみせる作品であった。

 また、神奈川国際版画トリエンナーレ2001展でグランプリを受けたフリオ・セサルには、今回出品作‘La Parada’(停車場、2001年)のように、‘Periodo espacial’の困窮した時期の体験を経る中で、キューバ市民の肉体における‘límite’が、おのずと見えてきたに違いない。メキシコの作家ポサダによる、カリカチュア的な一連のcalavera(されこうべ)の作品に触発されているが、ガソリン不足で、なかなか来ないバス待ちをするハバナ市民の群像を、巨大な木版画の白と黒の色彩でリアルな表現に仕立てている(ちなみに、キューバ映画には、長距離バスではあるが、同様の事情を描いた『バスを待ちながら』という佳作がある)。

 この四者の中では一番若いジェンドリス・パターソン・リカルドも、同様にキューバをアイコン化したさまざまな事物、例えば帝王椰子やキューバ島や国旗などをシンボリックに使用している。今回、出品作の‘Bandera con estrella’(星のある旗)‘Trazos de mi jaula’(檻の描線)は共に、キューバを象徴する星(estrella)が金網の中に封じ込められているというもの。見る者によって様々 な解釈が可能で、キューバに対するアメリカによる現下の経済封鎖なども想起させるが、むしろ、島国ゆえの、キューバの閉塞的状況を作家は示しているのではないだろうか。実際、彼は、キューバを出て、スペインを拠点に作家活動をするにいたっている。

 彼に限らず、サンドラ・ラモスも昨年7月より米国に拠点を移しているし、スペイン、カナダ、アメリカなど海外に拠点を移している作家は少なくない。それはキューバという国の情報環境の悪さということが影響しているのかもしれない。

 ここで、今回、来日し、CAJ-AIRでレジデンス制作に取り組んだアベル・バロッソの作品が関係してくる。というのは、21世紀に入って以降、彼にとっての最大の関心が、デジタル通信機器によるコミュニケーション・ツールであり、その際のキーワードを‘límite’とすることもできるからだ。

 目下のキューバにおいては、国境を越えるEメールは可能であるものの、海外のweb-siteやskypeなどの使用には不自由が付きまとう。2009年に「通信ネットワークプロバイダーが、米・キューバ間をリンクさせる光ファイバーケーブル及び衛星通信施設を設置するための契約を結ぶことを承諾すること」をオバマ大統領が制裁緩和に向け講じるよう指示したが、その措置が進展を見ないでいるという事も一因である(西林万寿夫『したたかな国キューバ』、2013年、アーバン・コネクションズ)。西林氏は、通信自由化はキューバの内政に影響を与えることへのキューバ政府の警戒感があることにも触れているが、いずれにしろ、海域に閉ざされた島国において、目下最大の情報問題は、諸外国並みのデジタル通信の自由ということなのである(キューバは、2011年からベネズエラ、キューバ間の光ファイバー海底ケーブル敷設計画に取り組んだが、中国製ケーブルの不良で、未だ衛星インターネット回線の使用にとどまっているというのが、2012年、ハバナ訪問時の市民の意見であった)。

 今回、バロッソは、木製の巨大USBをモチーフにした作品を出品した。10年ほど前に、アップル商標に対するマンゴ商標の木製の手動(笑)デスクトップで鮮烈な印象を与えたバロッソは、その後も、セルラルフォンやタッチパネルフォンなどをモチーフに制作を続けてきたのは、通信、コミュニケーションの世界的発達にもかかわらず、キューバにおいては、それが情報格差となって表れていること、その‘límite’を問題にしているのだろう。そういう文脈で見るならば、木製の巨大USBも、その携帯の軽便性に逆らうものであり、それに適合するパソコンを想像するならば、如何に大きなものとなるか、思わず苦笑を強いられる、というものなのである。

 ともあれ、バロッソの作品には、キューバにおけるデジタル通信の遅れた環境に対する一つのアイロニー=風刺という批評がはらまれている。彼の通信の自在性への欲望をユーモアをもって作品化する術は、ある意味、社会主義統制が厳密だった時代に、キューバの多くの表現者たちが取らざるを得なかった表現法でもあるならば、そういう意味でも、バロッソの作品は、‘límite’への挑戦とみることができるだろう。

 社会主義国キューバの現状には、対米関係なども含めて、さまざまな‘límite’があるにしろ、それらの状況に対して美術が様々にアプローチし、自問し、何らかの切開を希望していることは特筆していいことに違いない。本展が、現代美術の、そのような可能性をうかがわせる機会となったならば、まことに幸いに思う。

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